【第82話】日誌の大切さ
「翔太、それ書いといてな」
隊長がそう言って、
僕に警備日誌を渡した。
今日も一日の仕事が終わった。
特に事故もない。
苦情もない。
工事も予定通り終わった。
僕は日誌を開いた。
「異常なし」
そう書いて終わろうとした。
すると横から寺中さんが言った。
「ほんまに異常なし?」
「はい。何もなかったですよ」
「何もなかった一日にも、
何かはあるで」
僕は今日一日を思い返した。
朝八時。
工事車両が入場。
十時ごろ、
歩行者が少し増えた。
昼前には、
大型トラックが二台続けて入ってきた。
午後には、
近所の人から工事がいつまで続くのか聞かれた。
確かにいろいろあった。
でも、
どれも事故ではない。
「そんなことまで書くんですか?」
僕が聞くと、
寺中さんは笑った。
「全部書けとは言わん。
でもな、後で役に立ちそうなことは残しとくんや」
そして、
昔の話をしてくれた。
ある現場で、
毎日のように同じ時間帯に
大型車両が入ってきたらしい。
最初は誰も気にしていなかった。
でも、
ある隊員が日誌に書き続けていた。
『午前十時ごろ、大型車両入場。
歩行者多数。誘導注意』
何日も同じ記録が残った。
それを見た隊長が、
その時間だけ配置を変えた。
結果、
誘導がずっと安全になったという。
「一日だけ見たら、
ただの出来事や」
寺中さんは言った。
「でも記録が積み重なると、
傾向になる」
なるほど。
僕はもう一度、
今日の日誌を見た。
何を書くべきか、
少し分かった気がした。
警備員の仕事は、
事故を防ぐことだ。
だから僕は、
目の前を見ることばかり考えていた。
でも日誌は、
今日だけを見るものではない。
昨日と今日をつなぎ、
今日と明日をつなぐ。
今日の僕が気づいたことを、
明日の誰かに渡す。
それも警備なのかもしれない。
僕は日誌に書いた。
『10時頃、歩行者増加。
大型車両の入場と重なるため注意』
そしてもう一つ。
『近隣住民より工事期間について質問あり。
現場責任者へ確認し対応』
たった数行だった。
でも、
さっき書こうとした
「異常なし」
だけとは全然違う。
花吉が横からのぞき込んだ。
「翔太さん、めっちゃ書きますね」
「大事らしいぞ」
僕は少し得意げに言った。
寺中さんが笑った。
「お前も昨日まで
異常なしだけやったやろ」
ばれた。
日誌は、
作文ではない。
長く書けばいいわけでもない。
誰かを責めるためのものでもない。
その日に何があったのか。
何に注意したのか。
何を次の人へ伝えるべきなのか。
それを残すものだ。
記憶は、
少しずつ消えていく。
でも記録は残る。
何も起きなかった一日にも、
何も起きなかった理由がある。
誰かが注意していた。
誰かが誘導していた。
誰かが危険に気づいていた。
その積み重ねの結果が、
「異常なし」
なのだ。
仕事を終えて、
僕は日誌を閉じた。
今日の仕事は終わった。
でも、
今日の経験は終わらせない。
明日の安全につなげるために、
僕たちは日誌を書く。
つづく
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