【第86話】自分の点検も忘れずに
「翔太、明日の朝は健診やろ。案内、ちゃんと読んだか?」
勤務を終えた翔太に、寺中さんが声をかけた。
「あ、はい。鞄に入ってます」
「入ってるかやなくて、読んだか聞いてるんや」
翔太は、折れ曲がった封筒を取り出した。
中の案内は、届いたときのままだった。
「……今から読みます」
「現場の指示書なら、先に読むやろ」
返す言葉がなかった。
翌朝、健診会場に着くと、寺中さんが座っていた。
膝の上には、記入済みの問診票がある。
「おはようございます。早いですね」
「遅れて慌てるん、嫌いやからな」
翔太も隣に座り、問診票を広げた。
運動習慣。
睡眠時間。
食事のとり方。
仕事の書類なら迷わず書けるのに、
自分のことになると、妙に鉛筆が止まった。
「睡眠時間って、日によりますよね」
「せやな。最近の様子を書いたらええんちゃうか」
翔太は、昨日の夜を思い出した。
動画をもう一本だけと思い、寝るのが遅くなった。
その前の日も、たしか同じだった。
「……六時間、ないかもしれません」
「わしに良う見せんでええで」
寺中さんは、問診票から目を離さずに言った。
「こういうとこは、正直に書いとき」
名前を呼ばれ、翔太は検査へ向かった。
身長、体重、視力。
順番に進んでいく。
腹囲の測定では、思わず背筋を伸ばした。
「お腹の力、楽にしてくださいね」
看護師さんの声に、翔太は息を吐いた。
待合室へ戻ると、寺中さんが顔を上げた。
「どうやった?」
「お腹に力を入れてるの、ばれました」
「そこだけ警戒してどうすんねん」
二人で小さく笑った。
「でも、最近ちょっと気にはなってたんです」
「何が?」
「ズボンが、前よりきつくて」
寺中さんが、翔太の腰のあたりをちらりと見た。
「毎朝、知らせてくれてたんやな」
「聞こえないふりしてました」
採血を終え、残りの案内を確認する。
詳しい結果は、後日届くという。
「終わりましたね」
「結果が来たら、そっちも読まなあかんで」
翔太は、鞄の封筒を見た。
「また入れっぱなしにすると思ってます?」
「今日の実績があるからな」
「信用を失うの、早いですね」
会場を出ると、風がひんやりしていた。
翔太のお腹が、ぐうっと鳴った。
「何か食べて帰りませんか」
「ええで。何にする?」
「駅前の店、朝から大盛りが――」
そこまで言って、翔太は口を止めた。
寺中さんは黙って、続きを待っている。
「……普通の定食にします」
「食べたいもんまで、わしに申告せんでええ」
笑いながら歩き出した寺中さんに、翔太も続いた。
「寺中さん、何か気をつけてるんですか?」
「弁当に野菜を入れてもろたり、早めに寝たりやな」
「ちゃんとしてますね」
「夜中にせんべい食べて、怒られることもある」
翔太は思わず笑った。
少しだけ、肩の力が抜けた。
食堂で注文を済ませ、翔太はスマートフォンを出した。
今夜の就寝時刻に、通知を一つ設定する。
「何してるんや?」
「寝る時間です。まず、ここからかなと」
寺中さんはうなずき、お茶をひと口飲んだ。
その夜、動画の途中で通知が鳴った。
翔太の指が、次の動画の手前で止まる。
少し迷ってから、画面を閉じた。
明日の制服は、もう用意してある。
翔太は目覚ましを確かめ、部屋の明かりを消した。
つづく
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