【第80話】泥の中に咲く花
休憩時間。
翔太はスマホを見ながら、
一枚の写真に目を止めた。
大きな池に咲く、
淡いピンク色の蓮の花だった。
「きれいやなぁ……」
思わず声が出た。
隣にいた寺中さんが、
画面をのぞき込む。
「蓮か。きれいやな」
「はい。でも蓮って、不思議ですよね」
「何が?」
「こんなきれいな花なのに、泥の中から生えてくるんですよね」
寺中さんは少し笑った。
「そうやな。泥がなかったら、咲かへん花や」
翔太は、その言葉が気になった。
泥がなかったら、
咲かない。
警備の仕事を始めたころを思い出した。
暑い日。
寒い日。
雨の日。
立ちっぱなしで、足が痛くなった日。
通行人に怒鳴られた日。
自分は悪くないのに、頭を下げた日。
先輩に注意されて、悔しかった日。
失敗して、家に帰ってから落ち込んだ日。
「なんで俺、こんなことしてるんやろ」
そう思ったこともあった。
でも今は少し違う。
暑い現場を経験したから、水分補給の大切さがわかる。
失敗したから、確認する癖がついた。
怒られたから、相手の気持ちを考えるようになった。
先輩に注意されたから、周りを見るようになった。
しんどかった経験が、少しずつ自分の中に残っている。
翔太は蓮の写真をもう一度見た。
泥は、きれいではない。
できることなら、避けたいものかもしれない。
でも蓮は、その泥の中に根を張る。
そして水面へ向かって伸びていく。
最後には、泥とは正反対のような、美しい花を咲かせる。
「寺中さん」
「ん?」
「人も同じなんですかね」
「何がや?」
「しんどいこととか、失敗とか……。そういうのが泥みたいなもんで」
寺中さんは少し考えてから言った。
「そうかもしれんな。ただな、」
「はい」
「泥の中におるだけでは、花は咲かんと思うで」
翔太は顔を上げた。
「そこから上に伸びようとせんとな」
なるほど。
つらい経験をしただけで、人が成長するわけではない。
そこから何を学ぶのか。
次にどうするのか。
それが大切なのだ。
休憩が終わった。
翔太は再び持ち場についた。
車が来る。
歩行者が来る。
周囲を確認して、誘導灯を振る。
いつもの仕事。
派手ではない。
誰かに褒められることも、ほとんどない。
それでも翔太は思った。
今日のこの経験も、いつか自分の栄養になるのかもしれない。
嫌なこともある。
失敗することもある。
泥だらけになる日だってある。
それでも、上を向いて伸びていけばいい。
いつか花を咲かせるために。
翔太は誘導灯を握り直した。
「よし」
泥の中でも、蓮は空に向かって伸びている。
自分も、もう少し頑張ってみよう。
そう思うと、いつもの景色が少しだけ違って見えた。
つづく
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