【第61話】急がば回れ 〜瀬田の唐橋〜

六月の終わり。
その日の現場は、片側交互通行の道路工事だった。

昼過ぎまで降っていた雨は止んでいたが、路面はまだ濡れている。
夕方が近づくにつれ、車の量も増えてきていた。

「右から大型入ります!」

翔太が無線を入れる。

「了解!」

反対側では、新人隊員が少し緊張した様子で誘導していた。


だが、車が増えてくるにつれ、その動きが少しずつ焦り始める。

歩行者。
自転車。
右折車。

確認することが増えるたびに、動きが速くなっていった。

「どうぞどうぞー!」

新人が急いで車を流そうとした瞬間――

「待って!」

翔太が大きな声を出した。


横断歩道には、自転車の高校生が飛び出してきていた。

車はギリギリで停止する。

「……っ!」

新人の顔が青くなる。

翔太はすぐにドライバーへ頭を下げ、自転車にも安全確認を行った。

幸い、事故にはならなかった。

だが現場には、一瞬ヒヤッとした空気が流れていた。


――休憩時間。

新人は缶コーヒーを持ったまま、小さくうつむいていた。

「すみません……。
早く流さないとって思って……」

すると花吉くんも苦笑いを浮かべる。

「でも、焦りますよね。
後ろ渋滞すると、なんかプレッシャーありますし……」

その時だった。

近くでタバコを吸っていた寺中さんが、静かに口を開く。

「“急がば回れ”っちゅう言葉、知っとるか?」

翔太たちは顔を上げた。


「昔な、滋賀のほうで湖を船で渡る近道があったんや。
でも、荒れると危ない」

寺中さんは缶コーヒーを軽く振りながら続ける。

「せやから、遠回りでも“瀬田の唐橋”を渡ったほうが安全やった。
そこから、“急がば回れ”っちゅう言葉ができたんや」

新人は静かに聞いている。

寺中さんはゆっくりと言った。

「警備も同じや。
急いで流した車より、無事に帰った車のほうが大事なんやで」

その言葉に、翔太はハッとした。


たしかに現場では、“早く流すこと”を求められることもある。

だが、本当に守るべきものは――
“速さ”ではなく、“安全”なのだ。

現場終了後。

片付けをしながら、翔太は新人に声をかけた。

「今日、止めた判断は間違ってなかったよ」

「え……?」


「急がなくてもいいんだ。
ちゃんと確認するほうが、結果的には一番早い」

新人は少し安心したように笑った。

夕焼けの道路を見ながら、翔太はふと思う。

遠回りに見えても――
安全に進む道が、一番確かな道なのかもしれない。

赤く光る誘導棒が、静かな夕暮れの道路を照らしていた――。


つづく

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