【第36話】翔太の警備日誌 ありがとうの一言
朝からしとしとと雨が降っていた。
今日の現場は大型ショッピングモールの正面玄関。
翔太はいつものように黄色いベストに身を包み、
「おはようございます!」と明るく声を出して立哨を始めた。
人の流れは絶えない。
小さな子どもを抱いた母親、買い物袋を抱えたお年寄り、
それぞれが急ぎ足で通り過ぎていく。
翔太は傘のしずくで滑りそうになる足元に気を配り、
「足元お気をつけください」と何度も声をかけた。
そんなときだった。
車いすを押したおばあさんが、玄関前の段差で立ち止まっている。
前輪がひっかかって進めないようだ。
翔太はすぐに駆け寄り、
「段差、少し押しますね。失礼します。」
そっと後ろから押してスロープに乗せた。
「ありがとうねぇ、若いのによう気がつくねぇ。」
おばあさんはにっこり笑ってそう言った。
翔太は照れくさそうに「いえ、当たり前です」と頭を下げた。
だが胸の奥が、ぽっと温かくなった。
たった一言で、こんなにうれしいなんて――。
昼過ぎ、雨が止み始めたころ。
入口の傘立ての前で、小さな女の子が泣いていた。
「ママの傘がないの…」
翔太はしゃがんで目線を合わせた。
「大丈夫、貸し傘があるからお兄ちゃんが取ってくるね。」
少し濡れた傘を差し出すと、女の子は涙を拭って小さく笑った。
「ありがとう、おにいちゃん!」
その声が耳に残って、翔太の心はまた少し温まった。
夕方、勤務が終わる頃。
寺中さんが交代に来た。
「おつかれ。今日はええ顔しとるな、翔太。」
「はい、なんか“ありがとう”をたくさんもらえた日でした。」
寺中さんは少し笑って、
「感謝の言葉ってのはな、人の心を動かす魔法や。
言ったほうも、言われたほうも、どっちも幸せになる。
それがこの仕事の、いちばんの報酬やな。」
翔太はうなずきながら、少し遠くを見た。
いつもより柔らかい夕焼けが、濡れたアスファルトを照らしていた。
「こちらこそ、ありがとう。」
小さくつぶやいたその声は、
まだ少し湿った風に溶けていった。
つづく

