【第19話】石に刻まれた恩
蒸し暑い夏の日の朝。翔太は会社の駐車場で、作業着に着替える社長・松上さんを見て驚いた。
「えっ…社長、今日現場なんですか?」
「おう。今日はな、わしも現場に立つ。毎年恒例や。」
その日は地元の納涼祭。例年、近所の町内会から依頼があり、警備会社として会場内の安全確保を任されている。だが翔太が入社してから、松上さんが自ら現場に出る姿は一度も見たことがなかった。
「昔な、この町内会の会長さんに助けてもらってな。仕事がなくて、会社をたたむ寸前やったときに、“うちの警備頼むわ”って言うてくれた。それが初めての現場やった。」
「……え、それってもう20年前くらいですよね?」
「せやな。だから毎年、わしの中では“お返しの日”や。誰に言われんでも、自分で行きたくなるんや。」
翔太はその言葉に、以前社長室で見かけた額縁の文字を思い出していた。
『かけた情けは水に流せ、受けた恩は石に刻め』
なんとなく、いい言葉だとは思っていた。でも、その「重み」をこのとき初めて感じた気がした。
夕方になり、提灯が灯り始めた頃、祭り会場は家族連れでにぎわい、警備も慌ただしくなってきた。そんなとき、本部に「迷子が出た」との連絡が入る。
3歳くらいの女の子。母親と一緒にいたが、人混みの中で手が離れたという。
「翔太、お前は屋台の裏手を頼む。わしは公園の方回ってくる。」
翔太は懐中電灯を手に、屋台の裏の通路をひとつずつ確認していく。そして、わずかに聞こえたすすり泣く声に気づいた。
段ボールの影に、小さくしゃがみ込んでいる女の子がいた。
「お、おいで…大丈夫やで」
声をかけた翔太だったが、女の子は怯えた目で後ずさりした。翔太は焦った。どうしていいか分からず、しゃがんで手を差し出したそのとき――
「ごめんな、ちょっと通してや」
そう言って松上さんが現れた。
彼は静かにしゃがみこみ、女の子と同じ目線で、まるで孫に語るようにゆっくり話しかけた。
「おっちゃん、こわいこと、なんもないで。ママがな、“どこかな”って、ずっと探してるんや。せやから、一緒に会いに行こか」
女の子は涙でぐしゃぐしゃの顔のまま、小さくうなずいた。
松上さんの手を握るその小さな手を、翔太は黙って見つめていた。
無事に母親と再会した女の子を見届けたあと、翔太は社長に尋ねた。
「社長……あんなに優しい声、初めて聞きました。」
「そりゃあな、こっちはもう“おじいちゃん予備軍”やからな」
冗談っぽく笑う松上さん。でもその目は、どこか遠くを見ていた。
「翔太。お前、あの子が泣いとるとこ見てどう思うた?」
「……守りたい、って思いました。」
「ええこっちゃ。わしな、昔この町の人に、いっぱい世話になった。その恩は忘れへん。返せるときに返しとかな、わしの心がすまんのや」
「……それが、石に刻むってことですか?」
「せや。人にかけた情けはな、見返り求めんと水に流したらええ。でも、自分が受けた恩は、忘れんと刻んどく。そうしたら、困ってる誰かに“手を出す手”になれるんや」
翔太はその言葉を聞きながら、額縁の言葉が自分の胸にも刻まれていくのを感じた。
夜空には、大きな花火が打ち上がった。
翔太の目には、その光がにじんで見えた――
「俺も、そういう大人になりたい。恩を忘れない、優しい強さを持った人に――」
つづく