【第56話】当たり前を、当たり前に

春の風が少しやわらかくなってきた朝。
その日の現場は、市内の住宅街での道路工事だった。

翔太は、久しぶりに後輩とペアを組んでいた。

「今日よろしくお願いします!翔太さん!」

元気よく頭を下げたのは、上阪してきたばかりの新人、花吉くんだった。

「こちらこそ。無理せんでいいから、ゆっくり覚えていこうな」

「はいっ!でも僕、早く一人前になりたいんです!」

その目はまっすぐで、やる気に満ちていた。


午前中の交通量はそれほど多くない。
工事車両の出入りもあり、片側交互通行の規制が敷かれていた。

「花吉くん、まずは立ち位置やな。ここやと見通しが悪いから、もう一歩前に出て」

「え、でもここでも見えますよ?」

「“見える”と“見られる”は違うんや。ドライバーからどう見えるかが大事やで」

「なるほど…」

そう言いながらも、どこか腑に落ちていない様子だった。


しばらくして、1台の軽自動車が近づいてきた。

花吉くんは誘導棒を軽く振りながら、少し曖昧な合図を出す。

車は一瞬ためらい、ゆっくりと進んできた。

「……今の、ちょっと危なかったな」

「え?ちゃんと止めてたつもりですけど…」

翔太は静かに首を振った。

「“つもり”が一番危ないんや」


昼休憩。
コンビニのおにぎりを食べながら、翔太はゆっくり口を開いた。

「花吉くん、“凡事徹底”って知ってる?」

「ぼんじ…てってい?」

「当たり前のことを、当たり前にやり続けることや」

「でも、それって簡単なことじゃないですか?」

翔太は少しだけ笑った。

「そう思うやろ。でもな――それが一番難しいんや」


午後。
交通量が増え、現場は少し慌ただしくなってきた。

花吉くんは、さっきよりも大きな声で誘導しようとしていた。

だが――

「ストップ!一回止めて!」

翔太が強く声をかけた。

バイクが、花吉くんの死角からスッと入り込んできていた。

あと一歩で接触していたかもしれない。


「……すみません」

花吉くんの声が震える。

「なんでやと思う?」

「……周りが見えてなかったです」

翔太はうなずいた。

「それもある。でもな、一番は“基本を守れてなかった”ことや」

「基本…ですか」

「立ち位置、目線、声の出し方、合図の出し方。
全部、“当たり前”のことやろ?」

「はい…」

「その“当たり前”を崩した瞬間に、事故は起きるんや」


少しの沈黙のあと、翔太は続けた。

「派手な技術はいらん。特別なこともいらん。
でもな――“当たり前を守れる人間”は、現場で一番強い」

花吉くんは、ぎゅっと拳を握った。

「……僕、できてなかったです」

「大丈夫や。今気づいたやろ?」


その後の花吉くんは、明らかに変わっていた。

立ち位置を意識し、
車の動きをしっかり見て、
大きく、はっきりとした合図を出す。

一つ一つの動きは地味だが、確実だった。


夕方。現場終了。

「今日はありがとうございました!」

深く頭を下げる花吉くん。

「どうやった?」

翔太が聞くと、花吉くんは少し照れながら笑った。

「“当たり前”って、こんなに難しいんですね」

「せやろ」

「でも…ちょっとだけ、わかった気がします」


帰り道。

夕焼けの中、翔太はふとつぶやいた。

「当たり前を、当たり前にやる。
それができるようになったら、一人前やな」

花吉くんは、力強くうなずいた。

「はいっ!」


その日、何事もなく終わった現場。

でもそこには、
確かに“成長”があった。

――凡事徹底。
それは、目立たないけれど、
誰かの安全を支える一番大事な力。


つづく

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